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フィリピン世界遺産の旅2 ビガン/ 戦争の悲劇を超えた愛 

フィリピン世界遺産の旅2 ビガン 戦争の悲劇を超えた愛多くの観光客を魅了している古都ビガン。この土地も第二次世界大戦中、日本軍とアメリカ軍の激しい戦闘に巻き込まれました。しかし、街は戦禍から免れることができました。そのわけは・・・。ビガンに伝わるストーリーを穴田久美子さんから寄稿いただきましたので、ご紹介します。

戦争の悲劇を超えた愛 —-古都ビガンを舞台に  
  穴田久美子 (映像コーディネーター) 

●高橋大尉から妻アデラと2人の娘への愛

ルソン島北部南イロコス州の古都ビガンは16世紀から商業、貿易の拠点として栄え、スペインと中国の影響を受けた独特の建築様式の街並みとして知られている。地元の人々の間では、この美しい街並みが、第二次世界大戦の時代、日本軍とアメリカ軍との激しい戦闘による破壊から免れたのは、当時日本軍憲兵隊長だった日本人将校とフィリピン人女性との愛情物語にあると伝えられている。その日本人将校は、高橋フジロー大尉、妻はアデラ・トレンティーノ(Adela Tolentino)。夫婦には二人の娘がいた。

1944年10月20日、米軍がレイテ島に上陸してから日本の敗色が強まった。2月23日にマニラが米軍に渡った頃、高橋大尉はこの愛する家族をドイツ人のクレカンフ司教(Fr. Josef Klecamf)に託して、駐屯していたすべての日本軍と共にルソン島の山奥に退去していった。当時の日本軍司令部は、ルソン島の各部隊にアメリカ軍との決戦を前に、「ゲリラ討伐」のため、「米軍迎撃の際は軍背後及びその周辺を無人化すべし」という作戦を命令していた。高橋大尉もその命令を受けていたかもしれないが、愛する家族の保護を願い、住民から憎まれることを避けるため、敗走を決意したと伝わっている。しかも、「ナカオカ」という将校もフィリピン人女性、ベレン・カスティリョ(Belen Castillo)と結婚していた。古都ビガンを退去する時、この2人の日本人将校は「アメリカ軍が来ても、我々全員の退去を伝え、この街が破壊されないように交渉してください」と言い残したという。

右がセシリアさんの家、左が廃墟になつてしまった高橋大尉夫妻が住んでいた家。
明かりとりのカピス貝の窓が当時のまま残る

●アデラさんのお友達に会えた
 10年前のこと、高橋夫妻の隣人としてアデラさんと親しくしていた、セシリア・デ・レオン(Cecilia De Leon)さん(当時85歳)にお会いして、夫妻の生活やアデラさんとの思い出などを伺うことができた。高橋大尉夫妻が住んでいた家は、セシリアさんの両親が借家として母屋の隣に建てた家。当時は2階部分が手すりのついた一枚板の「橋」でつながっていて、2つの家を行き来できた。

アデラさんはベンゲット州の高原都市バギオ出身だったが、女子教育で有名なマニラのセント・スコラスティクス(St. Scholatic’s)女子校のカレッジまで進んだ。セシリアさんも同校のハイスクールを卒業。アデラさんが一学年先輩で、二人とも寮生活だったため、顔見知りだった。そして再会したときはすでに高橋大尉と結婚して、偶然にもセシリアさんと隣人になった。
再会を抱き合って喜んだ二人は姉妹のように仲良くなり、二つの家の二階部分の「橋」を通じて、お互い料理や小物を交換していた。当時は珍しかったアイスクリームを、アデラさんがセシリアさんに分けてくれた時のその美味しさを、今でもはっきり覚えているという。また、家の裏手にあるベランダで、高橋大尉夫妻がリラックスしながら、肩を寄せ合っておしゃべりしていた姿も覚えているという。

 

髙橋大尉夫妻がよくくつろいでいたというベランダ

髙橋大尉は目がキリッとした美男子で、口ひげをはやし、身長は170センチほどの細身の体型。かなり英語が流暢で、高い教育を受けた人と見受けたという。憲兵隊長という身分だが、決して住民に辛く当たることはなかったという。セシリアさんは高橋大尉とあまり会話する機会はなかったが、日本について聞いたとき、「私の出身は北海道です。寒くたくさんの雪が降ります」と話してくれたことを鮮明に覚えているという。セシリアさんは北海道がどこにあるかも知らない様子だったが、私自身が北海道出身と伝え、その寒さや風景を話すと、「高橋大尉が近く感じる」と微笑んだ。

戦後、高橋大尉夫妻の長女プレシラ(Priscilla)さんがセシリアさんを訪ねた。彼女の幼児洗礼の時のゴッド・マザーだったセシリアさんに、教会にある洗礼証明書を得るため、ゴッド・マザーとファザーの氏名を確認する必要があったからだという。20歳を過ぎていた彼女は父親に似た美しい娘に成長、すでに結婚していて「幸せに暮らしています」と話していた。身なりもきちんとしていたので、良い方と縁があったのだと、セシリアさんは安心したという。そして妹さんも結婚して幸せに暮らしているとの近況を語ってくれたという。

しかし、高橋大尉と離ればなれになったアデラさんは、バギオの医師と再婚、娘たちはアデラさんの母方の実家で成長したらしい。その実家の所在地は、ビガンから3つ離れた町だったという。娘たちのその後をセシリアさんは知る由もなかったが、マニラで暮らしているという風の便りを耳にしている。

●高橋大尉ら日本軍の退路の先

ビガンから去って行ったに日本軍は、北ルソンの山岳地域に向かい、イフガオ州のフグドゥアン町に集結。日本軍に従った民間日本人も1945年8月15日の終戦を知らずに、飢餓と戦いながら命をつないでいた。
東京湾に停泊したミズーリ号での無条件降伏文書の調印式が行われた9月2日、その情報を得ていた山下奉文大将は、白旗を掲げて、アメリカ軍の基地があった、州都であるキヤンガン町に姿を見せたことで、終戦となった。

9月2日はフィリピンでは「戦勝記念日」である。日本で出版された多くのフィリピン戦記には、その敗走の日々の辛さが書き記されている。しかし日本軍は敗走の日々の中で、武器を持たない多くの一般住民の命や食糧を奪い続けたことを、帰国できた日本人はほとんど語ろうとはしない。「命令だから、戦争だから仕方がなかった」という文章も少なくない。
しかし、たとえ命令であっても、自分の心の奥の叫びにしたがって、命令に従わない将校や兵士もいた。戦争を知らない私は、従軍した人に何かを言う資格はない。ただ、大切なことを自身で決めるとき、自分には嘘はつきたくない。

●「日本人の子」たちの戦後の苦しみ

 戦後、高橋大尉夫妻の二人の娘だけではなく、多くの日本人とフィリピン人との間に生まれ、フィリピンで生き続けた子孫は「日本人の子」として憎まれ、辛苦の日々を過ごした。フィリピン各地で「ゲリラ討伐」という名目の住民虐殺を続けた日本軍の罪を背負わされてきたからだ。

1903年に道路建設の労働者として一度に500人以上がフィリピンに渡航を始めてから、ダバオでのアバカ麻農園での集団就労など続き、太平洋戦争が始まる頃には、フィリピン全土に3万人以上の日本人が移民として、フィリピン社会に溶け込んでいた。移民のほとんどは日本人男性だったため、妻はフィリピン人で、二人の間に生まれた日系人は、日本人学校に通い、戦時中は日本軍の通訳などをして占領に協力した。しかし戦後、母の国に残った後は「裏切り者」として命も脅かされる日々に苦しんだ。

日本の多くの人々は、戦後の復興のなかで日系人の苦しみなど知る由もなかった。

私はどうしても、『恋物語』だけでこの文章を終えることができなかった。  (終)

 

古都ビガンに残る街並み。美しい夕暮れどき。

 

歴史地区では古い邸宅がホテルになっていて、
当時の暮らしそのままが体験できます。

 

・フィリピン世界遺産の旅3 パオアイ教会   に続く・・・

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