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第二次世界大戦中、私も会ってみたかった日本兵たち フィリピン通信4

 第二次世界大戦中、私も会ってみたかった日本兵たち    穴田久美子    2007.8.22

フィリピンでの様々な取材の日々の中で、最近の出来事がテーマだとしても、高齢者の方と話すとき、「もしかしたらこの方も第二次世界大戦のとき、日本軍に辛い思いをさせられたのでは?」心の奥に緊張が走る。自分が日本人である以上「私は戦争を知らない世代なので・・・」という言葉に意味はない。

しかし、「そんな出会いもあったのですか?」と思わず頬がほころんでしまう「思い出」をいくつか耳にした。戦争中という砂漠のような日々にも、ちゃんと咲いていた人の心の花。その花を自分なりに、フィリピンの人々との暮らしの中で受け継いでいきたい。時代がどうであっても、「平和」は一人ひとりの“思い”に支えられていると思う。

 

日本軍将校のピアノ演奏「月光」

ドアをノックする音で戸口を見ると、そこに日本兵が立っていた。その家には15歳の娘が住んでいた。父は恐怖を感じながら娘を床下の秘密の小部屋に隠したあと、ドアを開けた。日本兵は「突然驚かしてごめんなさい、ピアノの音が聞こえたので、懐かしくて・・・。できればピアノを少しの時間で良いので弾かせてください」。父は戸惑いながら、その日本兵を居間に案内した。ピアノの前に座った日本兵の指から、ベートーベンの「月光」の曲が流れてきた。その調べはまるでプロの演奏家のものだった。服装から将校レベルの兵士だと父は知った。ピアノの持ち主である15歳の娘は、隠れ部屋から出て、その演奏に聞きほれた。その家族と親しくなった将校は、時々その家を訪ねて、娘に様々な日本の曲を教えた。しかし数ヵ月後「部隊が移動するので今日が最後です」と挨拶に訪れたあと、二度と彼は現れなかった。

今は「おばあちゃん」と呼ばれるようになったその娘は、「荒城の月」の曲を、今も時々弾いている。ロスバニオス町のフィリピン国立農業大学で教鞭をとる息子家族と暮らしている彼女は、家を訪ねる学生たちにも、この曲との出会いを語り続けてきた。

 

特攻隊員の恋

神風特攻隊の発祥の地はフィリピンにある。マニラ首都圏から車で北へ1時間半のパンパンガ州マバラカット町にその記念碑が位置する。アジア最大規模の軍事基地だった、クラーク米軍基地の跡地の一角だが、今、その記念碑のそばで日本の政府援助で高速道路が建設中である。第二次世界大戦中は、日本軍の滑走路の先端があった場所。この滑走路からレイテ湾上の米機動部隊に体当たり攻撃を行った。この行為が後に神風特攻と呼ばれるようになった。

その町には今も「特攻隊員が最後の日々を暮らした家」が、ほとんど当時の姿で残っている。その家の持ち主の息子は突然家を明け渡さなければならなかった父親の悔しい思いを覚えている。小さな家に家族みんなで移った。当時12歳だった息子は、子どもだったため、自宅を接収された後も、特攻隊の住む家の庭で遊び続けた。日本兵たちが遊び相手になってくれた。その兵士の一人が、息子家族が仮住まいする家を度々訪ねるようになった。時々お菓子などを持ってきた。その日本兵はその家でお手伝いさんをしている女性に恋したらしい。フィリピン流に、ギターを片手に歌で恋心を伝えようとする彼に他の日本兵の友人も一緒に歌って応援した。まるでフィリピンの若者のようだった。

しかし1944年10月25日午前7時25分、その彼は5機の零戦の乗組員の一人として、レイテ島に片道分の燃料だけで、出発した。

 

今、75歳の「息子」は、居間のソファーの位置と窓横の壁を指差しながら、「このあたりで日本兵たちは床に座って、あの壁にたくさんの軍艦の絵を書いて、なにやら勉強をしているようだった」と当時の思い出を語った。そして「もう天国へ行ったらしい」と知った、恋の相手の女性は号泣していたのも覚えている。彼女と彼の恋心は、しっかりと繋がっていた。

 

日本兵と食べた「甘い黄な粉粥」

高齢のフィリピン人に「お前はマカピリみたいなやつだ」と言うと激怒する。「マカピリ」の意味は「売国奴」「裏切り者」という響きを持つ言葉になっている。しかし、元々の意味は「愛国同志会」という日本軍の指導で対日協力を行ったフィリピン人のグループのこと。

スペインとアメリカの統治時代、大地主による収奪的農業に不満を持っていた小作人を中心とするフィリピン人の中には、「同じアジア人」である日本の協力による、フィリピンの独立に期待を寄せていた人たちもいた。彼らの多くは日本軍の先兵として、アメリカ軍やアメリカに従ったフィリピン人たちと、終戦まで戦った。日本とアメリカの戦争が、フィリピン人を分断していた。日本軍と共に戦ったフィリピン人は、戦後「戦犯」として裁かれ、処刑やリンチを受けた。生き残っても日陰者として悲惨な生活を送ってきている。

『そのとき、歴史が動いた』というNHKの番組の取材で「マカピリ」のメンバーだった82歳の男性に会った。彼はマニラ首都圏から南へ一時間ほどのラグーナ湖沿いの村で細々を漁師として暮らし、一度も就職の機会を持てなかった。他人と接することも避けてきた。日本兵が村を去ったあと、マカピリのメンバーだった彼と彼の父は、アメリカ軍と戦ったフィリピン人たちに捕らえられ、後ろ手に縛られ、殴られ、帆の付いた小船で湖の真ん中に連れていかれた。父は船から落とされて、後ろ手に縛られたまま溺れ死んだ。父が落とされると同時に手のロープが緩んだ彼は、自ら湖に飛び込んで、深く潜って生き延びた。

彼の思い出の中の日本兵は、「同じカマドの飯の仲間」。黄な粉と砂糖をたっぷりかけたもち米のお粥の味を覚えているという。出来上がった黄な粉粥を、日本兵は自分の皿より先に、フィリピン人の仲間の皿に分けてくれたという。雨から火薬や銃を必死で守った時、肩を抱いて誉めてくれたという。今も近所の人たちから、「マカピリ」と呼ばれている彼は「白人は俺たちを見下していた。でも日本人は同じ肌、同じ心だった」と繰り返して語る。

「黄な粉粥」の彼の住む隣の町、カランバ町では、日本軍による1945年2月12日の住民虐殺の犠牲者の慰霊碑が3つ、今も住民の手で守られている。それぞれの記念碑には、2000人、400人、70人の犠牲者の数が記されている。この虐殺は『戦史叢書60』(防衛庁防衛研修所戦史室編)には「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなす」と記されている。慰霊碑の一つに「残虐で恐ろしい出来事があった。日本軍によって無実の子、妊婦、母に抱かれた幼児まで、銃剣で突かれて焼かれて殺された」と書かれてある。

 

会ってみたかった

フィリピン全土で100万人以上の犠牲が広がったという。私自身、首の後ろに一文字に日本刀の深い傷跡のある男性、慰安婦とされた女性たち、体に数箇所の銃剣の跡を持ながら生き延びた人たちの話を伺うたびに、辛かった。でも、日本兵はみんな同じではなかった。フィリピンの人たちの「心」に温かい思い出を残した日本軍兵士もいた。そんな兵士となら、私も会ってみたかった。

 

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プロフィール Kumiko Anada

北海道出身。マニラ在住21年。フリーで取材や通訳などを仕事にしている。海外労働者や女性、こども、先住民族が抱える問題を支援するNGOでボランテ

 

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