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4.202012
フィリピン列島縦断バスの旅 番組製作の裏話あれこれ フィリピン通信13
フィリピン列島縦断バスの旅 番組制作の裏話あれこれ 穴田久美子 2012.4.
「地球バス紀行」というBS-TBSの番組
フィリピンには、満潮と干潮で島の数は異なるが、公的に7101の島があるとされている。73州の各州都はそれぞれ主な島々に存在するが、そのほとんどの島々へバスで行ける。それはフェリー港が整備され、バスに乗ったまま、島々を超えて目的地へ移動できるからである。私も昨年9月にバスに乗って南へ、マニラ首都圏からミンダナオ島のダバオ市までの片道1,500キロ、そして12月にはマニラから北へルソン島北端、最古の灯台のある町まで片道600キロを旅した。それはTBS系列のBS放送の「地球バス紀行」のロケのためで、すでに日本で放送されている。番組制作コーディネートを仕事にしている私にとって、この番組作りはフィリピンを再発見する機会となった。この番組は「いつか、やってみたかった旅がある」と俳優、佐藤隆太さんのナレーションで始まる。
「バスの旅」あれこれ
フィリピンのバスの旅は、バス会社選びから始まる。行き先によって会社とターミナルが異なっている。運輸省は北方面と南方面へ向けての総合ターミナルの建設を試みているが、今のところ計画のみ。インターネットやガイドブックでバス会社の情報は容易に手に入るが、便利なのはタクシー運転手の情報。行きたい町とバス会社を訪ねると「こっちのバス会社の方が、運転のマナーがいいから安心だよ」とアドバイス。旅番組を制作するには同じルートを、カメラを動かす前に、模索しながら取材をしなければならない。つまり1,500キロのバスの旅を二回、計3,000キロを陸路とフェリーで突っ切った。北ルソンの旅は600キロだから、取材とカメラロケで、計1,200キロをバスで走破。50歳を過ぎた私には、かなりハードな旅である。
フィリピンの長距離バスのほとんどはクーラーとリクライニング座席が付いているが、カメラマンの希望で、窓が開きっぱなしの庶民価格のバスを乗り継ぐことにした。雨が降っても窓が閉まらなくて板を窓枠に当てる席もある。直射日光と、排気ガスで困った時もあったが、ヤシの実を燻す甘い匂い、魚を燻製にする空腹を誘う匂い、海の風、森の風などが、全身の感覚に飛び込んでくる。
約3時間ごとに、トイレ休憩や食事休憩でバスが止まる。マニラからダバオまでの1,500キロでは、フェリーの待ち時間を含めて、二泊三日の旅。運転手は二人乗車して、3人乗りの座席一列をベッドにして交代で仮眠をとる。切符を切る車掌さんの役割も交代で行うので、熟睡時間は短い。運転手の元気の素は「バルット」というヒヨコの形が微妙にわかってしまうアヒルの卵。「子作りにもこれが一番さ」とウインクする運転手たち。味は当然ながら鶏肉と卵を混ぜた香ばしさ。卵の中にスープが入っていて、これに塩をちょっと入れてすすると、極上のチキンスープ。立ち寄る食堂はバス会社の経営で、メニューは地方色豊か。トイレ休憩は15分ほどだが、食事休憩は30分以上たっぷり時間があるので、食堂の周りを散策するのも楽しい。バスで座っているだけなので、あまり空腹でない人に喜ばれているのが、どの食堂でも用意されている「アロスカルド」というもち米入りの鶏雑炊。生姜と塩で味付けてあるので、胃にもやさしい。トッピングに油で揚げたニンニクを添え、小さい青ミカンに似たカラマンシーを絞ってかけるとより美味しくなる。
番組の内容
マニラ首都圏から南下するダバオ市への1,500キロの旅では、バスの車内、車窓、そしてバスを乗せるフェリーでの人々などを紹介、途中にレガスピ市、タクロバン市、ダバオ市に立ち寄ってロケした。レガスピ市では、完璧な円錐形の美しいマヨン火山と麻の工芸品を作る家族。タクロバン市では「マッカーサー再上陸記念碑」と「マリア観音慰霊碑」にカメラを向けながら、フィリピンの民衆が第二次世界大戦の犠牲となった歴史を地元の女子大生たちの案内で伝えた。ダバオ市では豊かな果物と活気ある市場の風景、ミンダナオ先住民族の豊かな織物文化と伝承を描いた。各地方都市での人々とのおしゃべりや食べ物、家族の思い、若者の未来への願いなども織り込んでいった。
マニラ首都圏から北上するルソン島北端への600キロの旅では、途中下車してバギオ市、ビガン市、ラワグ市でロケをした。マニラ首都圏では交通渋滞や高層ビルなど都会の喧騒とスペイン植民地時代の城壁都市遺跡を紹介。避暑地であるバギオ市では雲に見え隠れする街並みや畑など高原の風景、そして虫めがねで太陽の光を集めて棚田などの絵を描くア―ディストが主役。ビガン市は世界文化遺産であるスペインと中国文化を調和させた古都の街並みを馬車から撮影。この美しい街並みを、第二次世界大戦の戦火から救った日本人将校とフィリピン人女性の愛の物語も伝えた。最後のシーンは、100年以上前に建てられたフィリピン最古で現役の灯台からの夕景で飾った。
コーディネータという仕事
多くの場合、ディレクターもカメラマンも初めてのフィリピン取材。表現者である二人に「フィリピンで番組を作れてよかった。」と感じてもらうことが大切。
常にカメラの後ろにいるが、時々、私の指、腕、足などパーツが一瞬登場する。でもわかるのは私だけ。インタビューする声もちょっと「出演」する。でもとにかく番組コーディネータという仕事は、黒子。番組のエンドロールでスタッフとして名前を出してもらえるのが、カメラの後ろで頑張った存在証明。
フィリピンのロケでの悩みは、地域によって言語が異なること。私はマニラ首都圏とルソン島中部で使われている、タガログ語での生活に不自由はないが、他の地域の言語は理解できない。フィリピンで最も多く母語として使われているのはビサヤ語。そのほかイロンゴ、セブアノ、イロカノ、ビコラノ、パンパンゲニョなどの地域母語がある。」これは方言というより日本語と韓国語の違いがあり、文法や単語に共通するものもあるが、文章にすると理解し合えない。しかしタガログ語は戦後の教育で国語として全国の教育現場で使われている。しかし番組作りの醍醐味は山岳地域での先住民族の生活、農村や漁村など日本の撮影隊がまだ訪ねていない場所でカメラを回すこと。しかしそこでは通訳としての私は役に立てない。そんな私が助けを求める相手は地域の小学校教師や役場の職員。二重の通訳になるが、地域の人々との架け橋になっていただける。言葉の理解に時間がかかっても、一緒に番組を作ることで「フィリピーノ・ホスピタリティ」という「もてなしのこころ」が、番組制作スタッフの心を包んでくれる。
フィリピンの「もっと」を伝えたい
日本の多くの人に、フィリピンの様々な風景や人々の暮らしをもっと伝えたいという思いは、近年強く思っている。多くのフィリピン人が結婚、介護や看護の仕事、学生、研修生として日本で暮らしている。その彼らと生活を共にしている日本人から「フィリピンの番組見たよ。日本の富士山のように美しい形の山があるんだってね、美しい織物がたくさんあるんだってね」など、フィリピンを“褒める”会話が弾むと、きっとフィリピン人は嬉しいと思う。
以前、国際結婚しているフィリピン人女性が「日本のテレビ番組のフィリピンは政治問題や貧困ばかりを伝えている。フィリピンには美しい風景や豊かな文化などもっといい事もたくさんあるのに・・・」という言葉が、メディアのコーディネータをしている私の心に突き刺さった。それ以来、観光やファッション雑誌、旅をテーマにした番組からのコーディネート依頼がくると、私のエンジンが全開してしまう。今年のフィリピン観光省のテーマは「もっと楽しいフィリピン」。フィリピン在住27年目の私自身、フィリピンでの生活は、もっともっと楽しくなっている。今後も様々なメディアを通じて、私の「もっともっと」を発信していこうと思う。
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筆者プロフィール
Kumiko Anada 北海道出身。マニラ在住22年。フリーで取材や通訳などを仕事にしている。海外労働者や女性、こども、先住民族が抱える問題を支援するNGOでボランティア。